エッセイ「街へ出て」など8作品を公開
『THE NIKKEI MAGAZINE』にて連載された「街へ出て」3作品、『ひらく』掲載の「僕の戦後」2作品など、エッセイ8作品を公開しました。
英語という外国語の習得が思うにまかせないのは、日本ではずっと以前から、やっかいな現実だ。ならばいっそのこと向き合おうではないかと判断した僕は、新書および文庫の英語の勉強本を探した。示唆に富むそれらの本から得られた結論は、外国の人たちをひきつけるほどの興味深い内容が豊かにあるなら、英語そのものは文法も発音もブロークンでいっこうに構わない、その方がその人らしい味が醸し出される、というものだ。しかし外国の人たちに興味を抱いてもらえるような内容があることは極めてまれである、というようなところまで話が進むと、外国語の教育はもちろん、自国語であるはずの日本語の教育ですらほとんど行われていないに等しい底の浅さという、国難と呼ぶに値する現実が浮かび上がってくる。
(『THE NIKKEI MAGAZINE』No.103 2011年12月9日掲載)
江戸の絵師たちが描いた猫を集めた『江戸猫』という本を見ると、江戸には猫がたくさんて、人々は猫たちと見事に共生していたことが一目瞭然だ。雪化粧の富士に雁が列を作って飛ぶ寒い朝、田んぼのなかの一本道を酉の市から帰る人々の行列を窓から眺めている猫のうしろ姿を、歌川広重が名所江戸百景のひとつとして描いている。東京の猫をめぐる何冊もの本は、江戸からの伝統の現在へと継承された形だろうか。店の前に専用のお立ち台を持つ名物猫。三社祭のあいだ浅草の猫はどうしているのか……猫の話題はつきない。しかし東京における猫の居場所は、今日もまた東京のいたるところで、確実に消えていきつつある。
(『THE NIKKEI MAGAZINE』No.104 2011年12月28日掲載)
僕は東京生まれだが、戦争中の疎開によって瀬戸内で子供の頃の10年間を過ごした。瀬戸内のあの陽光と潮風が、穏やかな海の風景の、そして素朴きわまりなかった田園のたたずまいの、あらゆるディテールに入り込んで溶け合う様子のすべてを、そのただなかにいた子供として、僕は10年分の体験をした。だから僕には、第一の故郷はないかわりに、第二の故郷はいまも僕のなかに、くっきりとある。故郷を主題とした4冊の本に収録されている数多くの故郷の風景は、子供の頃に体験したのと寸分たがわないディテールとその感触を、僕の故郷としてさぐり当てることが出来る。そして身にしみて新たに思うのは、故郷が失われていく日々のなかを自分は生きて来た、ということだ。故郷とは、この場合、日本の風景の全体を指している。
(『THE NIKKEI MAGAZINE』No.106 2012年2月19日掲載)
洋食という言葉はまだ現役だ。しかし洋食そのものは、日本の日常になじみきっている。洋服も日本文化のなかに完全に吸収され同化した。洋書はどうだろうか。これは死語になったばかりである、という僕の説を書いてみる。文明開化の時代には、それは南蛮渡来の、まさに洋書そのものだった。外国語で書かれている事柄は、日本にとって初めて体験する、文化における大衝撃だった。それは太平洋戦争が終わるまで、ほぼそのまま続いた。そして戦後の日本が経済立国をしていくにあたって、洋書も経済活動のための道具となった。自分たちの側に欠落している、魅力的な刺激に満ちた新しいものが、洋書や洋雑誌のなかに探し当てられ、自分たちの経済的な営みのなかに応用されていった時代は、洋書にとって最も幸せな時代だったのだが……。
(『日本経済新聞』2002年6月10日掲載)
子供の頃から夏になれば半袖のシャツを着てきた。いまでもそうだ。しかし、ある出来事が半袖のシャツと深く絡み合い、それ故にその出来事も半袖シャツも、記憶の底に深く刻まれている、というようなことは残念ながら何ひとつない。自分がこれまでに書いた小説では、「なんの変哲もない白い半袖のシャツ」という言い方で半袖シャツを登場させたことが、少なくとも5度はあるような気がする。どの場合も女性の主人公が着ていた。彼女たちが身につけると、それぞれに輝きを得た特別なものに変化するのだろう。つまり問題なのはシャツではなく、それをいま着ているその女性の中身、あるいは少なくとも体を、作者である僕は問題にしているはずだ。
(『AZUR』2010年8月号掲載)
10月の何日だったか。ルースという台風が日本に到来した日、妙に曇った風の強い日だった。9時30分頃に引っ越しのトラックに家財道具を積み込み、呉にはその日の午後4時頃に着いた。着くとすぐに、僕はルース台風に備えて、窓という窓すべてに、すじかいの板を釘で打ちつける作業をやらされた。1952年4月28日にGHQが廃止され、講和条約と日米安全保障条約のふたつが発効した。主としてアメリカによる日本の占領は終わり、日本は独立することになった。僕が岩国から呉へ引っ越したとき、すでにGHQはなかった。僕の父親はこのGHQに日本という現地で雇われた職員だったが、僕たちが呉に着いたときには、組織変えした進駐軍での再就職を確実なものにしていたようだ。
(『ひらく』第8号/2023年1月5日発行)
1953年の初旬。その年の夏が終わった頃、呉から汽車に乗った僕たち家族は、次の日の午後、まだ早い時間に東京駅に到着した。夏の終わりの、晴天の日だった。僕たちの東京における住所は、世田谷区代田一丁目だった。この代田一丁目の停留所で東急バスを降りると、三分も歩けば、僕たちの新しい家があった。平屋建ての小さな家だった。1953年の梅ケ丘通りは、舗装のされていない砂利道だった。雨が降ればたちまちぬかるみ、晴天が続くとすさまじい土埃が上がった。
「ここから歩いていける、もっとも近いタウンは、どこだろうか」と、僕は父親に聞いた。
「それは下北沢だよ」と、父親は答えた。
僕が初めて見た下北沢は、日曜日で閑散としていた。人が少ないのだ。当時の主婦の感覚では、日曜日に買い物に出るのは、恥ずかしいことだった。
(『ひらく』第9号/2023年6月30日発行)
自分はあの瞬間にひとりの人として物心がついた、と断言することの出来る瞬間が、広島原爆が炸裂したときの強烈な、それまで見たこともない不思議な感触の光を、全身で受けとめるようにして見た時だった。戦後教育を受けた最初の世代であり、映画や雑誌といった大衆のメディアに、戦後が始まったその瞬間から浴びるように接していった最初の世代でもあり、そのひとつにラジオがある。玉音放送を自宅のラジオで聴いた記憶が、ごくかすかにある。母親が一日じゅうラジオをつけっぱなしにしている、という日常がスタートしたのは、この玉音放送からだったようだ。そのときどきのヒット歌謡曲も、敗戦から1960年代の終わりあたりまで、およそ25年分、僕はそのほとんどにラジオを通して接している。
(『Quick Japan』2005年12月号掲載)
2026年8月7日 00:00 | 電子化計画
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